山陰・島根の地酒「國暉」を醸す國暉酒造の公式ホームページ(国暉=KOKKI) 國暉酒造(こっき)酒蔵の沿革と歴史

  國暉酒造の沿革


國暉(こっき)の酒蔵は城下町松江の宍道湖湖畔にあります。

 松江は日本海、宍道湖、中海、山野の幸が集まり、多彩な食文化が栄えてきました。古代より出雲国の中心として栄え、神話の時代から八岐大蛇など酒にまつわる話があります。そして、今日に至るまで佐香神社、出雲大社で酒造りが行われ、出雲杜氏の里としても知られております。

 國暉酒造の店舗は文化五年の大火後に建てられたもので、江戸時代末期の町屋の面影が残っております。宍道湖に臨む仕込蔵は松江藩主松平家の土蔵を譲り受け、移築改造したもので、数百年の大梁の下、造り続けられた酒の系譜が今日の國暉の味わいになっております。國暉の酒蔵は城下町松江の宍道湖湖畔にあります。

 國暉酒造の店舗は文化五年の大火後に建てられたもので、
江戸時代末期の町屋の面影が残っております。宍道湖に臨む
仕込蔵は松江藩主松平家の土蔵を譲り受け、移築改造したもので、数百年の大梁の下、造り続けられた酒の系譜が今日の國暉の味わいになっております。
國暉の酒蔵絵


 國暉酒造の歴史
 江戸時代は、現在地にて廻船問屋、藍染業、水産業など幅広い商い、藩の信頼も厚く名字帯刀を許されてました。現在の店舗は、文化5年の大火の際に再建されたものです。
 明治7年、酒造業を創業。松江藩の土蔵を譲り受けて仕込蔵とし、数百年の大梁の下、造り続けられた酒造りの系譜の結晶がここにあります。


戦時下 人道支援
 戦時中、食料米不足の為、原料米に統制がかかります。全ての酒蔵が減産して生き残れる状況では無いため、休業してもらえる篤志を募りますが、長年伝承してきた生業を止めることはなかなか難しいことでした。國暉の当主 岩橋清次郎は、こうした説得や調整役を務め、最後に自らも休業することでケジメを付けました。

戦後復興期 GHQとの戦い
 岩橋清次郎は戦後、同様に休業した酒造業者に呼びかけ酒蔵の復興運動を展開し、島根県に復活期成同盟会を設立。こうした動きは全国に広がり、「全国酒類酒造復活同盟会」を結成しました。当初事務局を山梨に設けておりましたが、山梨本部が活動ができなくなり、途中から全国本部事務局を当蔵に移して、運動を展開しました。
 しかしながらGHQは、国のために酒造りを休止した行為を「戦争に協力した行為」と考えており、侵略戦争遂行の経済的基盤となった酒蔵(実際に日清日露戦争の軍備調達は酒税で賄われていたと云われている)を弱体化させることはあっても休業蔵を復活させることは考えておりませんでした。
 我々が生業を放棄し休業したのは、国民の食糧難という状況から国民を救うため(今日で云う「人道支援」)であるという主張を訴え、GHQ、政府と交渉を重ね、復活運動の中心的役割を果たします。
 結局、全てを復活させることはできないが、複数醸造家が集まって法人として1カ所で造るのなら認める枠を作るという条件で決着。
 当蔵も11業者が集まり、当蔵にて昭和22年に酒造業を再開し、松江酒造有限会社を設立。昭和31年に國暉酒造有限会社に社名変更しました。

戦後〜今日
 岩橋家で使用していた酒蔵で醸造し、集まった醸造家は、それぞれ酒販店として、造った酒を提供しているというスタイルで、戦後出発しました。
 以降、山陰で初めて琺瑯タンクを導入。また 昭和37年に、全国で2番目にタンクを個々に温度管理する「黎明式冷房」を採り入れるなど、品質管理の向上に力を入れる一方で、微生物を保有する酒蔵を保持し、伝統的な手造りの技法を磨き上げ、今日に至っております。

 酒造りは毎年毎回が新たです。技術は日月進歩。伝統に軸足を置きながらも、先人達の知恵に満足することなく、常に研究・研鑽・挑戦。 小さな蔵故に充分なことは出来ませんが、その姿勢の一つとして、國暉酒造では毎年一本は実験的な仕込みを行っております。
 このような取り組みもあって、また優秀な蔵人にも恵まれて 全国新酒鑑評会で昭和60,平成1,3,4,5,8,9,11,12,13,16,19年金賞受賞。最高頻度10カ年の金賞受賞率では全国第3位の蔵となります。

 平成18年から、岩橋弘樹社長が、前杜氏から技を受け継ぎ蔵元杜氏として酒造りを始め、平成22年に会社を「國暉酒造株式会社」として今日に至っております。



このページは國暉酒造のページです。
トップページは http://www.kokki.jp/
昭和60,平成1,3,4,5,8,9,11,12,13,16,19年 全国新酒鑑評会金賞受賞蔵
國暉酒造株式会社
島根県松江市東茶町8
PHONE 0852-25-0123 FAX 0852-25-0124